パリ · 建築
ノートルダム大聖堂の歴史と規模
ノートルダム大聖堂 · パリ, フランス
パリのシンボル、ノートルダム。その石の床の下には、私たちが想像するよりずっと深い時間が眠っています。ヴィクトル・ユゴーがなぜあれほどまでにこの聖堂を守ろうとしたのかを知るには、この土地が抱える、とても古い物語から始めなければなりません。物語は2000年前にさかのぼります。当時すでにここは神聖な場所で、土着のケルト人の神々とローマの神々をともに祀る神殿があったといいます。キリスト教が広まると、この地にはサン・テティエンヌ大聖堂という大きく古い教会が建ち、数百年にわたってパリの信仰の中心でありつづけました。やがて12世紀、当時の司教だったモーリス・ド・シュリーは、聖母のために、これまでとは比べものにならない、世界でもっとも偉大な聖堂を建てるという大きな志を抱きます。
古い聖堂を取り壊し、1163年から約180年に及ぶ工事を経て聖堂は完成し、ノートルダムの偉大な歴史が幕を開けました。その計画は大胆なものでした。聖堂の全長は128m、ちょっとしたサッカー場よりも長いのです。中に入ると圧倒される天井の高さは33m。マンションの10階を優に超える空間を、石だけで積み上げました。正面の2つの塔は69mの高さにそびえ、この巨大な空間には9000人もの信徒が一度に入れたといわれています。当時の技術ではほぼ不可能に近い、信仰心が生んだ奇跡でした。
こうして600年にわたってパリの心臓として輝いてきたノートルダムに、歴史上もっとも過酷な試練が訪れます。18世紀末のフランス革命の嵐です。聖堂は圧政を敷く王と教会の象徴とみなされ、怒れる群衆の最初の標的となりました。ファサードの王の彫像は首を落とされ、聖堂の鐘は溶かされて砲弾になりました。神聖だった空間は「理性の神殿」と名前を変え、のちには軍隊の食料やワインを保管する倉庫として打ち捨てられます。ナポレオンがここで皇帝の戴冠式を行うことになったときも、状況は変わりませんでした。荒れ果てた聖堂の内部は、豪華な布を張って仮に覆い隠されただけだったのです。式が終わると、ノートルダムはまた人々の記憶から忘れ去られていきました。19世紀初頭、ノートルダムはゆっくりと死に向かっていました。ひどく老朽化し、パリの地図から消えかねない、風前の灯火だったのです。
そのさまを心を痛めて見つめていた一人の男がいました。王でも将軍でもない、30歳の若き小説家、ヴィクトル・ユゴーです。彼はこの偉大な遺産が失われるのを防ぐためにペンをとり、1831年、小説『ノートルダム・ド・パリ』が世に出ます。この小説の本当の主人公は、私たちが知るカジモドやエスメラルダではありません。数々の受難を耐えながらもパリを見守りつづけてきた魂を持つ、ノートルダム大聖堂そのものでした。小説はフランス中を揺さぶりました。人々は自分たちがどれほど貴重な宝を見捨てていたのかに気づき、恥じ入りはじめます。「ノートルダムを救え」という声は全国的な運動へと広がり、ついに政府も大規模な修復を約束しました。
一人の情熱と物語が、崩れかけていた石の塊にふたたび命を吹き込みました。実のところ、私たちが今日ここに立てるのもヴィクトル・ユゴーのおかげなのです。ノートルダムは、時代を見つめてきた歴史の証人として、今もそこに立ちつづけています。読書がお好きな方は、すべてがAIやインスタントな文明の中で蜃気楼のように感じられる今、ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を読み、忘れ去られたものについて思いをめぐらせてみてはいかがでしょうか。






