サント・シャペル · 5/22

パリ · 建築

聖王ルイと母ブランシュ

サント・シャペル · パリ, フランス

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この礼拝堂を築いたルイ9世と、その母ブランシュ・ド・カスティーユの物語です。

フランス王といえば、多くの方がヴェルサイユ宮殿を築き、70年以上にわたってヨーロッパに君臨した太陽王ルイ14世を思い浮かべるでしょう。ところが、その太陽王が生涯にわたって仰ぎ見た祖先がいました。その名を冠した騎士団までつくったほどです。太陽王でさえ頭を垂れた王、それがこの礼拝堂の主、ルイ9世です。教会から聖人に列せられた王は、フランス史上初にして唯一とされ、「聖王ルイ」とも呼ばれています。

物語は、1226年11月8日に始まります。この日、父ルイ8世が亡くなりました。「獅子王」の異名をとった強き王は、遠征からの帰途に病に倒れ、39歳で世を去ったのです。一夜にして未亡人となった王妃がブランシュ・ド・カスティーユで、その傍らには12歳の息子ルイがいました。葬儀の21日後、息子の戴冠式が行われましたが、会場には来るべき人々の姿がありませんでした。フランスで最も力のある貴族たちが、こぞって欠席したのです。その本音は明らかでした。王は死に、幼い王はお飾りにすぎない。今度は我々の番だ、というわけです。

そんな狼たちのなかで息子の王冠を守り抜いたのが、母ブランシュでした。スペインのカスティーリャ王国の王女として生まれ、自らも12歳でフランスに嫁いだ彼女は、見知らぬ言葉、見知らぬ人々に囲まれながらも、生涯忘れなかったものがありました。実家の紋章である小さな城の形です。この城の形を、ぜひ覚えておいてください。彼女の人生は試練の連続でした。26年の結婚生活で生まれた子どもの多くを幼くして亡くし、生き残った5人の子のうち、長男がルイでした。夫まで失った彼女は、残されたすべてをこの息子に賭けることにします。

彼女が息子によく語ったと伝わる有名な言葉があります。「わが子よ、おまえが大罪を犯すくらいなら、いっそ死んでくれたほうがよい」。魂がすべてだった中世において、彼女にとって息子の魂は、命よりも重いものだったのです。

摂政としての8年間の功績も見事です。貴族が反乱を起こすと自ら軍を率いて出陣し、鎮圧に3度も加わりました。イングランド王が攻め込もうとすれば、戦争ではなく外交で平和を築き、南フランスを30年にわたり揺るがした宗教戦争も、彼女の手で終結します。中世ヨーロッパで、外国出身の王妃が成し遂げたことと思えば、いっそう驚かされます。

そんな母のもとで育った少年は、毎日ミサに通い、貧しい人々の足を自ら洗い、民の訴えに直接耳を傾けて裁きを下す、賢明な王となりました。1234年、息子が20歳になると、ブランシュは自ら摂政の座を退き、亡くなる日まで最も身近な助言者であり続けました。1252年、彼女が息を引き取るとき、息子は臨終に立ち会えませんでした。はるか遠くシリアで十字軍遠征の最中だったのです。母は最期の瞬間まで、息子に代わって国を守り続けて世を去りました。

この親子の物語のなかで、サント・シャペルともっとも深く結びつくエピソードをご紹介します。1239年8月19日、パリの蒸し暑い夏の日のこと。パリの南東約150キロの町に、ひとつの行列が近づいてきました。2人の修道士がヴェネツィアへ旅立ってから8か月。長い道のりの末、荊冠はついにフランスの地を踏んだのです。ルイ9世と母ブランシュ、弟のロベールが自ら出迎え、荊冠の前にひざまずきました。

9日後、行列がパリの郊外に到着したとき、ルイ9世は皆を驚かせる行動に出ます。黄金の王冠も、紫の外套も、革のブーツも脱ぎ捨て、白いチュニック一枚だけをまとったのです。履き物も脱ぎ、弟と二人、荊冠の聖遺物箱を肩に担いで、裸足でパリの町へと入りました。8月の照りつける日差しの下、土の道を二人きりで裸足で歩いたのです。

行列はノートルダム大聖堂にしばし立ち寄った後、王宮内の小さな礼拝堂に移されました。そしてルイ9世は、荊冠を永遠に安置するための家を建て始めます。それがサント・シャペルです。礼拝堂のあちこちに、百合の紋章と母ブランシュのカスティーリャの城の紋章が、寄り添うように現れる理由も、これでおわかりいただけたでしょう。

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