パリ · 彫刻
三度の不合格が作った彫刻家 — ロダン、波乱の生涯
ロダン美術館 · パリ, フランス
ロダンは1840年11月12日、パリで生まれた。公務員だった父のおかげで裕福ではなかったものの教育は受けられ、幼い頃から芸術の才能を見せたことで、父は彼をプティ・エコールという美術学校に入学させた。そこでデッサンと彫刻を学んだロダンは、フランス最高峰の美術学校エコール・デ・ボザールを受験するが、なんと三度も不合格となってしまう。
自分の実力なら十分合格できるはずだと信じていただけに、その衝撃は大きかった。後に伝えられるところでは、当時の審査員は新古典主義的な作品を高く評価していたが、ロダンが提出した作品は彼独自の個性的なスタイルだったため、評価基準に合わなかったようだ。結果的には、この不合格がむしろ彼にとって幸いとなる。学校で型にはまった彫刻教育を受けなかったことで、ロダンならではの独創的なスタイルがそのまま保たれたのだ。もしあのとき入学していたら、ただの平凡な彫刻家で終わっていたかもしれない。
学校入学を諦めたロダンは、すぐに仕事を探し生計を立てねばならなくなった。そんな折、姉マリアが腹膜炎で亡くなる。ロダンは自分が紹介した男のせいで姉がストレスを受けて死んだのだと自分を責め、深い罪悪感にさいなまれた。その罪を償うため、彼は司祭になろうと決意する。しかし彼を見守っていたジュリアン神父は、ロダンに合っているのは聖職ではなく彫刻だと判断し、再び芸術の道へと導いた。この決断がなければ、世界はロダンという彫刻家に出会えなかったかもしれない。
同じ頃、ロダンはローズ・ブーレという女性と出会い同居を始め、子どもも生まれたことで、今度はお金を稼がなければならない立場に置かれる。彼は彫刻家カリエ=ベルーズのアトリエで助手として働きながら生計を立てたが、この時期のロダンにとって彫刻は芸術的な達成というより生計の手段に近かった。幸い腕前が優れていたため、あちこちから声がかかり、約20年間コツコツと働くうちに生活も安定し、ロダンはイタリア旅行に出かける。そこでダ・ヴィンチやミケランジェロといったルネサンスの巨匠たちの作品を目の当たりにし、彼の芸術魂に再び火がついた。
パリに戻ったロダンは『青銅時代』を制作する。あまりにも生々しい表現だったため、実際の人体から型を取ったのではないかという論争を巻き起こし、彼は大きなストレスを抱えることになったが、同時にこれが彼の名を広く知らしめるきっかけにもなった。
その後、ロダンの彫刻家人生はいくつかの波乱はありながらも、おおむね順調に続いていく。この時期、彼は長年の伴侶ローズを置いて、カミーユ・クローデルと16年にわたる恋愛関係を続けた。二人が出会った当時、カミーユは18歳、ロダンは41歳だった。結局二人は別れ、ロダンは再びローズのもとへ戻り、カミーユは別れた後に精神を病んで精神病院に入院し、そこで生涯を終えることになる。その後ロダンはグウェン・ジョンという女性とも交際するが、この間もローズとの同居は続いていた。ローズとは1917年、ロダンが77歳になってようやく正式に結婚式を挙げ、夫婦となったが、ローズは結婚式のわずか2週間後に世を去り、ロダンもほどなく老衰で息を引き取った。
死の前、ロダンは自身のアトリエだったこの建物を美術館にすることを条件に、所蔵していたすべての彫刻と作品を国家に寄贈した。彫刻家として大きな成功を収めて富を築き、彫刻家協会の会長も務め、フランス政府が授ける最高の栄誉であるレジオンドヌール勲章まで受章した。芸術家として名誉と富の両方を手にした、数少ない人物の一人だったのである。