パリ · 建築
建築家ギュスターヴ・エッフェルの物語
エッフェル塔 · パリ, フランス
塔の名は、フランスの建築家アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルに由来します。英語では「ジ・アイフェル・タワー」、フランス語では「ラ・トゥール・エッフェル」と呼びます。ところが、実際に塔の設計図を描いたのは、エッフェル本人ではなく、彼の事務所で働いていた2人の社員、モーリス・ケクランとエミール・ヌーギエでした。この2人が建築家ステファン・ソーヴェストルと協力し、博覧会の入口に建てる建築物のコンペに応募して、採用されたのです。とはいえ、エッフェルが総指揮をとったプロジェクトなので、彼のアイデアも多く反映されました。興味深い例が、最上階に客人を招くための私的なアパルトマンを設けたことです。発明家のトーマス・エジソンなど、エッフェルの知人たちがここに滞在し、現在は一般に公開されています。エッフェル塔のエレベーターを設計したとされるエジソンは、1889年9月10日に初めて塔を訪れ、芳名帳に次のような言葉を残したそうです。
「近代工学の巨大で独創的な見本をつくり上げた、勇敢な建築家にして技術者エッフェル氏へ。最も偉大な技術者である善き神を含むすべての技術者に、最大の敬意と賛辞を捧げる一人より。トーマス・エジソン」
建設現場では120〜200人が働き、パリ北西部の作業場では300人以上が資材の加工を担当しました。作業員たちは、1万8038個の精錬された鉄の部材を約250万本のリベットでつなぎ合わせ、わずか2年2か月余りという短期間で塔を組み上げました。
塔の金属構造の重さは7300トンで、金属以外の資材も含めると1万トンを超えます。完成当初は1万1000トンでしたが、900トン減って、現在は約1万100トンになっています。エッフェルが塔を主に鉄骨で構成したのにも理由があります。この高さの構造物は風圧の影響を大きく受けるため、構造の間を風が通り抜けるようにするほうが安全で、土木の経験が豊富なエッフェルならではのノウハウでした。それでも、風が強い日には塔が揺れるため、安全上の理由から3階への立ち入りが制限されます。外壁がまったくない開放的な構造のため、建設当時は事故の危険もかなり高いものでした。
しかし、エッフェルがガードレールや遮蔽板など安全対策を徹底したおかげで、死亡事故はたった1件だけで、それも作業時間外に現場以外の場所で起きたものだったといいます。エッフェルは、塔が風で最大70センチまで揺れるように設計しました。記録上最も大きく揺れたのは、1999年に風速時速240キロを記録したときで、約13センチでした。ただ、風よりも塔に大きな影響を与えるのは太陽熱です。夏に気温が上がると金属が膨張して、塔の高さは最大17センチ高くなり、冬にはまた縮みます。1976年には、灼熱の夏の日差しで塔の頂上が18センチほど動いた記録もあります。
エッフェルの代表作は、エッフェル塔だけではありません。最も有名なのは、ニューヨークの自由の女神像で、その設計の一部にエッフェルが携わりました。ほかにも、トゥールーズ駅、パリの劇場や教会、学校をはじめ、ボリビア、ペルー、チリ、ハンガリー、ポルトガル、ベネズエラ、メキシコなど、イベリア半島や中南米の各地に作品があります。ポルトガルのポルトにあるマリア・ピア橋は、エッフェル塔の橋バージョンと呼べるほど、堅牢でありながら簡潔で洗練されたデザインで、エッフェルならではのスタイルを感じさせます。ヨーロッパに多い石造りの建物とはまったく違う鉄骨構造のエッフェル塔は、当時、衝撃的な姿として受け止められました。
エッフェルは土木の分野で活躍した構造技術者だったため、一般の建築家よりも大胆に新しい素材を用い、デザインにも先見の明がありました。フランスは、1851年にロンドンのハイド・パークで開かれた最初の万国博覧会のためにジョゼフ・パクストン卿が設計した水晶宮(現在は失われています)と、今もユーロスターなど多くの列車が発着するロンドンのセント・パンクラス駅を意識して、博覧会を準備しました。セント・パンクラス駅の柱の間隔が73メートルであることを意識して、柱の間隔が115メートルの機械館と、300メートルを超えるエッフェル塔を建てたといわれています。ちなみに、エッフェル塔の脚の間隔も72.75メートルと非常に広いものです。
この塔は技術力を誇示し、国民の士気を高めるための建造物だったため、実は建設から20年後に解体される予定でした。それでも今なお残り、愛される観光地になったのには、理由があります。建設費があまりに高額だったため、大半を建築家のエッフェル自身が負担し、その代わりに20年間の塔の独占権を認められました。自作を信じていたエッフェルの予想どおり、投資費用は3年で全額回収されました。こうした商業性に加え、解体を思いとどまらせたエッフェルの説得、フランス軍上層部による送信塔としての活用の提案などが重なり、エッフェル塔は今日までフランスの象徴であり続けています。実際、1914年の第一次世界大戦中には通信中継塔として使われ、第一次マルヌ会戦では、フランス軍がパリ市内のタクシーを最前線に投入する際に、この塔を使って放送を流したといわれています。1925年には塔から初めてのラジオ放送が送られ、その後はテレビ放送にも利用されました。
エッフェルは生前、エッフェル塔をエジプトのピラミッドによく例えていました。人間がつくった高く素晴らしい作品が、エジプトにあれば称賛されるのに、パリでは醜いものとされるなんて、おかしいではないか、というのです。




