パリの百貨店 · 5/12

パリ · ショッピング

世界初の百貨店、ボン・マルシェ

パリ · パリ, フランス

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ボン・マルシェが不安定な景気のなかで生き残り、百貨店になれた理由を知るには、まずこの店を誰が経営していたのかを見てみる必要があります。主人公はアリスティッド・ブシコーです。ノルマンディーに生まれたブシコーは、帽子店を営む父のもとで初めて仕事を学び、18歳でパリに出ると、いくつかの流行品店で働いたのち、「プティ・サン・トマ」という流行品店に落ち着きました。ここで、のちにボン・マルシェで実践する販売方法を身につけたのです。販売の才能があった彼は、ボン・マルシェの共同経営を任され、その後、店をすべて買い取りました。共同経営を始めた1852年のボン・マルシェは、従業員12人、年間売上45万フランの比較的小さな店でしたが、ブシコーが買い取ってからは、従業員1,788人、年間売上700万フランの巨大な百貨店へと成長しました。

では、ボン・マルシェはほかの流行品店と何が違ったのでしょうか。まず、その答えは店名にあります。「ボン・マルシェ」は「よい市場、安い」という意味で、ブシコーは名前のとおり、薄利多売を経営の第一原則としました。ほかの流行品店も薄利多売はしていましたが、工場で大量生産できる商品だけを安く売っていたのに対し、ボン・マルシェは上質な高級品まで含め、すべての商品を薄利で販売しました。ほかの店が30〜40%の利幅を取るなか、ボン・マルシェの利幅は18〜20%、純利益はわずか4〜5%でした。安い商品に引かれて入店し、結局は高い商品を買って出てくるほかの店と違い、本当に安い価格で良い品が買えるのですから、人が集まるのは当然でした。

ブシコーは商品の「展示会」も開きました。ファッションショーやランウェイではなく、冬物を夏に展示するなど、今の百貨店でよく見かけるイベントに近いものです。これによって、販売に先立って商品の存在を知らせ、その品質の高さを見せたのです。新しい商品の展示を眺めているうちに、思わず欲しくなる心理を突いて売上を伸ばし、「この商品だけでなく、ボン・マルシェの商品はどれも品質が高い」という印象をさりげなく刻み込むことで、お客が安心して買い物できるようにしました。

高品質の商品を安く売る「おとり商品」も活用しました。代表的なのが「ホワイト商品」、つまり白い商品です。当時は洗剤も洗濯方法も今とは違い、白いワイシャツや白い下着を身につけることが最高の贅沢のひとつでした。結婚の際に白い品々を嫁入り道具としてそろえることは、女性にとってほぼ義務でもありました。こうした商品を安く買えるというだけで、女性たちをボン・マルシェに引き寄せるには十分でした。おとり商品につられて訪れた人が、新しい品も見て買っていく。それこそがブシコーの狙いだったのです。

ほかの流行品店が社会の混乱と不況のなかで次々と倒産したのは、回転率が落ちて収益性が悪化したためです。ボン・マルシェは、こうした戦略で低下した回転率を克服し、生き残りました。ブシコーは従業員に「無理に売りつけてはいけない。商品に問題があればお客様に伝えるように」と指導するなど、信頼を重んじる販売方針をとりました。それは返品制度にも表れています。当時のボン・マルシェの商品案内には、「お気に召さないお買い物はすべて交換、または『お客様』のご希望どおり全額返金いたします」という一文が記されていました。気に入らない商品を交換するか、不良品に限って返金を受けられたほかの流行品店と違い、ボン・マルシェでは、古すぎず未使用であれば、交換も返金も可能だったということです。

「タグは外さず、1週間以内にレシートをお持ちください」。今ではおなじみのこの言葉は、当時のパリジャンにとっても耳慣れたものだったのかもしれません。薄利多売、展示会、おとり商品、そして顧客との信頼を重視した販売方法によって、ボン・マルシェは品ぞろえを広げ規模を拡大し、世界初の百貨店となることができたのです。

とはいえ、ボン・マルシェが買い物に適した店だと知ってもらうには、まず人々が足を運んでくれなければなりません。携帯電話もなかった時代、その情報を知らない人のほうが多かったことでしょう。ブシコーが人々を百貨店へ呼び込んだ方法は、次の章で見ていきます。

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