パリ · 建築
借金から生まれた宝石箱
サント・シャペル · パリ, フランス
サント・シャペルは、ノートルダム大聖堂が建つシテ島にあります。長さ1キロ、幅300メートルのこの島は、ぐるりと一周しても30分ほど。けれども、ここはパリ発祥の地でもあります。2000年前、パリシイ族という部族がこの島に住みつき、その名がのちのパリの名の由来となりました。
では、800年前に遡ってみましょう。13世紀のシテ島は、今とはまるで違う姿でした。狭い島に1万5000人が暮らし、教会や礼拝堂は20を超え、毎朝いっせいに鐘が鳴り響いたといいます。島の東端は「神の区域」。着工から70年が過ぎてもなお完成の見えないノートルダム大聖堂の工事が続き、その傍らにはヨーロッパ最古の病院オテル・デューと司教館がありました。一方、西端は「王の区域」で、歴代フランス王が暮らした王宮、パレ・ド・ラ・シテが構えていました。その王宮の中心に、新たな建物が建ち上がり始めます。それがサント・シャペルです。ノートルダムが180年あまりをかけて築かれた「みんなの大聖堂」だとすれば、サント・シャペルはわずか7年で完成した「王の宝石箱」でした。
この建物が生まれた理由は、借金に苦しむ一人の男の手紙にさかのぼります。1237年、パリの王宮を訪れたのは、コンスタンティノープルの最後の皇帝、ボードゥアン2世でした。東ローマ帝国の皇帝とは名ばかりで、借金を抱えてヨーロッパ中を巡り、資金を探し歩く身。実際に治めていた土地は、包囲されたコンスタンティノープルの街ひとつだけでした。そんな彼に残された最後の財産が、皇室の礼拝堂で600年にわたって守られてきた聖遺物、とりわけ、イエスが十字架上でかぶったと伝わる「荊冠」だったのです。
1238年、追い詰められたボードゥアンは、荊冠をヴェネツィアの商人に担保として差し出します。4か月以内に返済できなければ、荊冠は永遠にヴェネツィアのものになるという条件でした。期限が迫ると、彼はいとこで、ヨーロッパで最も信仰深いと言われた若き王、ルイ9世に最後の手紙をしたためます。「私の借金を肩代わりしてほしい。そうすれば荊冠はあなたのものになる」という内容でした。
ルイ9世はためらいませんでした。その代価は13万5000リーヴル。当時のフランス王国の年間予算のほぼ半分にあたります。王はその後も数年かけて、真の十字架の断片や、キリストを刺したとされる聖槍など、受難にまつわる聖遺物を合わせて22点も買い集めました。キリスト教世界で最も神聖な権威が、そっくりパリに移ってきたのです。人々はパリを「新しいエルサレム」と呼ぶようになりました。これらの宝物を安置するために建てられたサント・シャペルですが、その建築費は、荊冠1点の値段の半分にも満たなかったと伝えられています。
工事は1242年頃に始まり、1248年4月26日に献堂式が行われました。かかった期間は7年足らず。同じ頃、島の東で建設が進んでいたノートルダム大聖堂は、完成までに182年を要し、多くの石工が生涯を捧げながら完成を見ることなく世を去りました。サント・シャペルが一人の王の生涯のうちに着工から完成まで至ったのには、二つの理由があります。ひとつは資金。市民の寄進で建てられたノートルダムとは違い、王の金庫から潤沢な資金が流れ込みました。もうひとつは人材。当代随一の石工、彫刻家、ガラス職人が一斉に投入されたのです。ただし、この傑作を設計した建築家の名は、今も明らかになっていません。
献堂式の日には、王と王妃、そして王の母ブランシュが列席しました。生涯をかけて守り抜いた息子が、最も神聖な空間を完成させる瞬間を、母は見届けたのです。その2か月後、ルイ9世は十字軍の遠征に出発し、再び母に国を託します。ブランシュは1252年、息子が遠くシリアにいる間に息を引き取りました。