パリのピカソ · 4/27

パリ · 絵画

無名時代のピカソと《コキオの肖像》

ピカソ美術館 · パリ, フランス

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《ギュスターヴ・コキオの肖像》の主人公ギュスターヴ・コキオは、当時のパリで活躍した批評家であり作家でした。文章を書き、芸術作品を収集するコレクターでもあり、オーギュスト・ロダンの秘書も務めていました。ピカソとの関わりでは、彼の作品を批評した人物にあたります。ここでは、コキオその人よりも、この肖像画を描いていた頃のピカソについてお話ししましょう。

1901年のピカソは、まだパリに完全に腰を据えてもおらず、名も知られていない、無名の時代にありました。先ほど《カサジェマスの死》で触れたとおり、彼は1900年にカサジェマスとともにパリを訪れたあとスペインに戻り、翌1901年にひとりでパリへ向かったカサジェマスは自ら命を絶ちます。その後、ピカソは1901年5月に再びパリへ向かいました。まだ完全な定住ではなかったものの、そこで絵を売り、展覧会も開きました。

スペインには、父という心強い支えがあり、学校でも才能を認められていました。ところが、20世紀初頭のパリは、彼にとってあまりにも高い壁でした。美を追求し、物事を客観的に見ようとしてきた従来の美術のルールが崩れつつあった時代で、多くの芸術家がそれぞれ新しい潮流を生み出し、作品を発表していたのです。1900年から1914年の間にパリだけで、異なる芸術上の主義を掲げて創刊された文化雑誌が200種以上あったといわれます。数え切れないほどの潮流が生まれ、同じだけ消えていった時代でした。その只中に到着したピカソは、ごく普通の若い芸術家にすぎませんでした。

そのため、1901年から数年間のパリ生活の初期、ピカソは困窮の中で暮らさなければなりませんでした。父の援助はあったものの、父との関係もぎくしゃくしていました。お金の心配から、油彩では描き終えた絵の上に新しい絵を塗り重ねることもあり、冬にはスケッチの束を暖房代わりに燃やしたこともあるといいます。カサジェマスの死のあとはしばらく憂うつにも苦しんだため、パリでの最初の頃の暮らしは決して明るいものではありませんでした。

それでもピカソは、コキオのような批評家や、絵を売ってくれる画商、パリにいたスペイン人の友人たちと出会いながら、作品を売ろうと努め、自分だけの道を切り開いていきます。やがて名声と莫大な富を手にすることになりますが、そんな彼にも、こうした苦しい時期があったのです。

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写真は ウィキメディア・コモンズ より。撮影:Jean-Pierre Dalbéra、Spotter2(CC BY-SA 3.0 / CC BY 2.0 / Public domain)。

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