パリ · 街歩き
『ノートルダム・ド・パリ』とボヘミアンの物語
パリ · パリ, フランス
「美しき都パリ、権力が全てを支配した時代、ときは1482年、欲望と愛の物語」。鐘楼、鐘つき男、大聖堂、ボヘミアン――そう、ヴィクトル・ユゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』です。教会が世界の中心を占め、魔女狩りが盛んだった1482年を舞台に、ボヘミアンの女性エスメラルダ、孤独な鐘つき男カジモド、自信にあふれる近衛隊長フェビュス、信念にとらわれた司教フロロを中心に、悲劇的でありながら美しい愛の物語が繰り広げられます。タイトルの「ノートルダム・ド・パリ」は「パリの我らが貴婦人」、つまり聖母マリアに捧げられたこの大聖堂を指します。英語圏では『The Hunchback of Notre Dame』(ノートルダムのせむし男)という題で広く知られています。
パリの中心にそびえるノートルダム大聖堂は、何百年にもわたってパリの象徴として愛されてきましたが、いつも輝いていたわけではありません。ユゴーが小説を発表する前の19世紀初めには、ほとんど忘れ去られた存在でした。フランス革命のさなかには宗教的・政治的対立の中心となり、尖塔が取り壊され、フランス王の像と間違えられたユダヤの王たちの彫像が破壊され、一時は倉庫として使われたこともあったといいます。その運命を変えたのがユゴーです。1831年に出版された『ノートルダム・ド・パリ』は、大聖堂の美しさと文化的・歴史的価値をあらためて人々に伝え、修復運動を後押ししました。1845年から20年あまりにわたって大規模な修復が行われ、ゴシック様式がよみがえり、尖塔が再び立てられ、傷んだ彫像やステンドグラスも修復されて、現在の姿になりました。1991年にはユネスコの世界遺産に登録されています。ミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』は、1998年9月16日にパリで初演されて大成功を収め、ギネスブックにも載ったとされます。以来20か国以上で上演され続けています。
ここからは、この作品に登場するボヘミアンの暮らしをたどりながら、パリの隠れた物語を探しにいきましょう。エスメラルダは、身分にも束縛にもとらわれない自由なボヘミアン、いわゆるジプシーの女性です。ただ、「ジプシー」という言葉は、歴史的に、流浪の民ロマの人々を見下す呼び方としても使われてきました。ロマの人々は共同体を中心に暮らし、決まった職業や住まいを持たないことも多く、音楽や物語、神秘的な芸が暮らしの大切な一部だったといわれます。約1500年前に北西インドを離れ、何世紀にもわたって旅を続けた彼らは、ヨーロッパでさまざまな名前で呼ばれました。イギリスではジプシー、フランスではボヘミアン(Bohémien)です。「ジプシー」はエジプト出身と誤解されたことから、「ボヘミアン」はチェコのボヘミア出身と考えられたことから生まれた言葉です。ボヘミア出身と勘違いされた背景には、こんな事情があります。1423年、神聖ローマ帝国皇帝でボヘミア王でもあったジギスムントが、他のヨーロッパ諸国とは異なり彼らを迫害せず、保護し、恩恵を与えるよう求める保護状を書き与えたのです。そこには「彼らが我が帝国内のどの都市や村に現れようとも、我々に対するのと同じ忠誠をもって迎えてほしい」という内容があったといいます。ロマの人々がこの手紙を携えてフランスに入ると、フランス側はそれを見て「この人たちはボヘミアの人なのだろう」と思い込み、「ボヘミアン」と呼ぶようになったのだそうです。
フランスにロマの人々が現れた最古の記録は1427年です。当時、120人のボヘミアンがカトリックの国フランスに来て、自分たちは改宗したと主張し、教皇から教会の支援を受ける許可を得て、パリ近郊のラ・シャペル=サン=ドニの村に定住しました。その後は物乞いや占いで生計を立てながら共同体をつくりました。彼らが暮らした一帯は「奇跡の宮廷」と呼ばれましたが、その理由はあまりに悲しい話です。同情を引くために障害者のふりをして物乞いをしていた人々が、隠れ家に戻ると奇跡のように障害が消えたからだといいます。彼らの暮らしぶりは物議をかもし、盗みや魔術を行ったと非難され、村人との関係は悪化していきました。ついにパリの司教は彼らを破門し、村から追い出します。ミュージカルの「奇跡の宮廷」の場面で、ボヘミアンの指導者クロパンはこう歌います。「物乞いたちが盗人たちと踊る。この奇跡の宮廷で。我らはみな同じ運命。どうせ俺たちの運命は絞首刑」。当時のボヘミアンの暮らしを端的に表す歌詞です。迫害は中世だけの話ではありません。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはロマの人々を数十万人規模で虐殺し、2010年にはフランスのサルコジ大統領のロマ追放政策が国際的な論争を呼びました。
この作品に登場するボヘミアンは、エスメラルダを中心に、自由で情熱的でありながら、過酷な現実に向き合う、抑圧された異邦人の生き方を象徴しています。ミュージカルの序盤にある「魔女(La Sorcière)」では、司教フロロがエスメラルダへの欲望と内なる葛藤をあらわにしながら、彼女をこう描写します。「あのジプシーの女に気をつけろ。あれはボヘミアンの魔女。野良猫のように裸足で街をさまよう獣。見ることさえ罪だ。サタンの娘、あの魔女め」。そして終盤で、エスメラルダはついに命を奪われます。ナンバー「追放(Déportés)」は、皮肉にも、エスメラルダが愛するまさにその人、フェビュス隊長の口から語られます。「国王の名のもと、パリ法院が下した判決を宣告する。エスメラルダ、魔女の罪により絞首刑に処す。そして不法滞在者ども、追放だ。流刑だ。強制移住だ」。
とはいえ、「ボヘミアン」という言葉がいつも否定的に使われるわけではありません。芸術や創造性を重んじ、社会の規範を拒む生き方、あるいはそうした生き方を求める人を指すようになったのは、19世紀初めのパリでのことでした。フランスやアメリカなど各地で、ロマの人々の自由で縛られない暮らしに魅了された人々が、彼らと親しくなったり一緒に暮らしたりして影響を受け、そうした生き方を実践し始めたのです。ボヘミアンから着想を得た舞台も数多く生まれました。『ノートルダム・ド・パリ』のほか、1830年代のパリのカルチェ・ラタンに暮らす芸術家たちの生活と愛と友情を描いたオペラ『ラ・ボエーム』、それを1980年代末のニューヨークに置き換えたミュージカル『レント』、1820年代のスペイン・セビリアを舞台にジプシー女性カルメンの奔放な愛と悲劇を描いたオペラ『カルメン』などが代表例です。今のパリでボヘミアンの精神をもっとも濃く感じられるのは、モンマルトルです。かつてピカソやゴッホといった芸術家が活動したこの地には、今もボヘミアンの面影が残っています。
2024年12月、歴史の中に消えてしまいそうだったノートルダム大聖堂が、再び私たちのもとへ戻ってきました。2019年4月、改修工事中の火災で尖塔が崩れ落ち、木造の屋根の大部分が焼失しましたが、5年にわたる復元作業を経て一般公開が再開された、感動的で歴史的な日でした。この日の記念公演では、ミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』の代表曲3曲、「大聖堂の時代」「教会の鐘」「ベル(Belle)」がメドレーで披露されました。とくに印象的だったのは、本来は別の人物が歌う「大聖堂の時代」を、カジモド役の俳優が歌ったことです。歌詞はこうです。「大聖堂の時代がやってきた。世界は新しい千年を迎える。天に届きたい人間は、ガラスと石の上に自らの歴史を刻む」。人目につかないところで、聴力を失うほど誠実に鐘を鳴らし続けたカジモドが、再開を祝ってこの歌を歌う姿は、弱い立場の人々やマイノリティに力を与える演出のように感じられました。
ノートルダム大聖堂は、二度も消えかけた危機を乗り越えてきました。19世紀には人々の無関心のなかで取り壊されそうになりながら、ユゴーの小説によって新たな命を得ました。そして2019年の火災で深刻な被害を受けましたが、数えきれない人々の努力によって再び戻ってきました。今日も大聖堂の鐘は鳴り響き、過去と現在、そして未来をつなぐ永遠の物語を語りかけてくれます。