パンテオン · 6/28

パリ · 建築

教会として始まったパンテオンの歴史

パンテオン · パリ, フランス

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パンテオンはもともと、墓所ではなく教会として建てられた建物です。上空から見ると十字の形をしているのも、そのためです。始まりは、1744年のルイ15世の時代にさかのぼります。ルイ15世は、荒廃していたサント・ジュヌヴィエーヴ修道院を再建することを決めました。こうして生まれたサント・ジュヌヴィエーヴ教会が、パンテオンの前身です。ジュヌヴィエーヴは、5世紀ごろヨーロッパを席巻したフン族の侵攻からパリを守ったという伝説をもつ、パリの守護聖人です。

18世紀の王が、5世紀の聖女のために教会を建てた理由は、2つ伝えられています。ひとつは、健康を祈願するためでした。当時わずか34歳だったルイ15世は、暑い季節に戦争の指揮をとるなかで体調を大きく崩し、病床に伏します。病が癒えたなら聖ジュヌヴィエーヴをたたえる壮大な教会を捧げると祈ったのです。ジュヌヴィエーヴがフン族からパリを守ったように、病という敵から自分を救ってほしいと願ったのでした。

もうひとつは、王権の強化です。ルイ15世は、曽祖父であるルイ14世に比べてカリスマ性や王としての威厳に欠けると評され、聖職者、貴族、民衆の心をつかむことができませんでした。愛妾のほうが有名な王と言われるほど女性関係が複雑で、信仰心が足りないと聖職者からも非難を浴びます。さらに、無理な戦争参加で財政が悪化すると、芸術家や文人たちも時代を批判し、王にも厳しい目を向けました。危機感を抱いたルイ15世は、壮大な教会を建てることで、失われた権威を建築によって取り戻そうとしたのです。

1758年に病が快癒したルイ15世は、誓いのとおり工事に着手しました。設計を任されたのは、イタリアのローマで建築を学んだ建築家スフロです。こうして、新古典主義建築の傑作、パンテオンが誕生しました。地震や財政難などで工事は遅れ、完成は1790年。ヨーロッパの建築としては早いほうといえるでしょう。しかし、ルイ15世も、初代の建築家スフロも、完成したパンテオンを目にすることなくこの世を去りました。

王権強化という隠れた意図から建てられたこの教会は、王政の崩壊とともに役割を変えます。平民が王政を倒して共和国を打ち立てたフランス革命の時代、革命勢力はこの教会を共和国の偉人たちの墓所に改めました。最初に埋葬されたのは、「革命の父」と呼ばれた政治家、ミラボー伯爵です。彼は議会で、平民だけが重い税を負担していた租税制度の改革を訴え、巧みな弁舌で革命の指導者となりました。1791年にミラボーが亡くなると、議会は彼をどこに祀るべきか思案し、そこで推薦されたのがサント・ジュヌヴィエーヴ教会でした。この教会に、ミラボー伯爵をはじめとする共和国の偉人たちを祀ることになったのです。

こうして建物の正面には「偉人たちに、祖国は感謝する」という言葉が刻まれ、ヴォルテールとルソーの遺骸もここに安置されることになりました。この時から、サント・ジュヌヴィエーヴ教会は、自由・平等・博愛という共和国の価値を体現した偉人たちを祀る国立の墓所となったのです。

「パンテオン」という名もこのときに付けられました。ローマを訪れたことのある方なら、パンテオンの名を耳にしたことがあるでしょう。ラテン語で「すべての神々のための場所」、つまり万神殿を意味します。ローマでは、この万神殿がのちに「すべての聖人のための教会」に姿を変えました。一方フランスのパンテオンは、フランス共和国に偉大な功績を残した、神にも等しい人々のための場所という意味を込めて、この名で呼ばれるようになったのです。

では、どのような人々がここに眠っているのでしょうか。それは、どんな人物がフランスの偉人にふさわしいのか、という問いでもあります。埋葬をめぐっては議論も少なくありませんが、その話は次のトラックで続けます。

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