パリ · 絵画
モネの墓、そしてカミーユとアリス
ジヴェルニー · パリ, フランス
この教会は、一般にはほとんど公開されていません。その裏手にあるモネの墓を探してみましょう。モネは1926年12月5日、86歳で亡くなりました。最期の望みは、質素な葬儀だったといわれています。花や花輪は決して望まないと念を押し、庭の花をこのようなことのために摘まないでほしいと頼みました。遺言どおり、家族は麦わらのような草の束だけで棺を飾ったそうです。お墓を見て回りながら、モネの愛の物語をお話ししましょう。村を巡り終えて駐車場へ戻る道すがらお聴きいただいても構いません。
《緑衣の女》のモデルとなったカミーユは、貧しい庶民の出身で、モネよりもかなり年下でした。彼女はモネがその生涯で数多くの絵を描き続けられるよう、ミューズとして大小さまざまなインスピレーションを与えました。二人は困難をともに乗り越えて支え合い、1867年に最初の子どもが生まれます。家族への限りない愛情は、モネの多くの絵に見て取れます。《日傘をさす女》をよく見ると、モネが自然の姿や人物の表情を精密に再現していないことがわかります。素早く、やや荒々しい筆づかいがすぐに感じられますが、彼が関心を寄せたのは瞬間をとらえることでした。光がつくり出す自然の美しさと、人物の生き生きとした姿に目を向けた結果、この作品は前の時代の作品とは異なる新しい輝きを手にしました。そのうえ、描かれているのが妻カミーユと息子ジャンだと知れば、この作品の愛おしさはいっそう増すでしょう。
無名に近かったモネは、家族の猛反対を押し切ってモデルのカミーユと結婚し、カミーユは息子ジャンを産みました。いちばん大切な人たちだったからでしょうか、作品には明るい愛とあたたかな平穏があふれているようです。けれども、幸せが続くかに見えた二人は、ジャンが生まれた前後に大きな困難に見舞われます。モネは深刻な経済難に陥り、父親も二人を助けようとはしませんでした。状況は悪化の一途をたどり、1868年には深い絶望に沈み、一時は生きる気力を失うほどの苦しい時期を過ごします。1869年と1870年のサロンでも続けて落選しました。その後、モネはしばらく絵を描くのをやめ、カミーユとともに休息をとります。幸い、ルイ・ジョアキムという貴族が作品を支援してくれたおかげで、画家として仕事をしながら家族を養う余裕を少しずつ取り戻しました。
1870年6月に結婚したモネとカミーユは、まもなく勃発した普仏戦争を避けて、息子とともにロンドンへ渡り、戦争が終わるとフランスに戻りました。1872年にはパリ西部の工業都市アルジャントゥイユに居を定め、自分だけの技法を築きはじめます。制作に没頭していた1878年、次男ミシェルが誕生しますが、この出産をきっかけに、カミーユの健康はさらに悪化してしまいます。そのためモネ一家は、百貨店の経営者だった裕福なオシュデの家に身を寄せることになり、オシュデはモネの《印象、日の出》を購入するなど、後援者となってくれました。カミーユの容体がひどく悪くなると、二人の息子ジャンとミシェルは、オシュデの妻アリスが、自分の5人の子どもたちとともに世話をしました。ところが今度は、オシュデが経営していた百貨店が倒産。窮地に陥ったオシュデは、一人でベルギーへ去ったきり、二度と戻ってきませんでした。
苦境に立たされたアリスとモネ一家は、1879年までヴェトゥイユに滞在しますが、この年にカミーユが32歳で世を去ります。その頃、モネは子どもたちの面倒を見てくれていたアリスと親しくなり、やがて二人は恋人同士になりました。当時まだ人妻だったアリスは、離婚しないまま、モネと子どもたちとともに1883年にジヴェルニーへ引っ越します。月日が流れてアリスの夫が亡くなると、1892年に彼女はモネと結婚しました。1880年代後半から1890年代にかけて、モネは経済的に豊かになっただけでなく、画家としても成功を収めました。



