マレ地区 · 2/36

パリ · 街歩き

パリ市庁舎、共和国の栄光を刻む建築

マレ地区 · パリ, フランス

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マレ地区のツアーは、パリ市庁舎の前からスタートします。ネオ・ルネサンス様式のこの建物は、ヨーロッパ最大の公共庁舎建築といわれています。フランス語で市庁舎は「オテル・ド・ヴィル(Hôtel de Ville)」。フランス語ではHを発音しないため、「ホテル」ではなく「オテル」と読みます。役所とは思えないほど華やかで荘厳な外観と、この名前のせいで、観光客がうっかり豪華なホテルと間違えることも少なくありません。「オテル」は英語の「ホテル」のように宿泊施設を指すこともありますが、公共建築物や、豪華な大邸宅を意味する言葉でもあります。王が暮らした宮殿オテル・サン・ポルやオテル・デ・トゥルネル、貴族やブルジョワの大邸宅を指す「オテル・パルティキュリエ」にも、同じ言葉が使われています。マレを歩くと、「オテル」と名のつく場所に何度も出会うことになります。

パリ市庁舎は、およそ7世紀にわたるパリの歴史を刻んできた場所です。かつては「グレーヴ広場」と呼ばれ、セーヌ川を通じて農作物、ワイン、肉、魚、皮革など各地の特産品が届く、パリの玄関口でした。品物は市庁舎のそばにあるレ・アル地区の市場で取引され、パリ経済の中心を担っていました。当時の資料画像を見ると、市庁舎前の広場は砂地の川岸。フランス語で砂地を「グレーヴ(grève)」と呼ぶことから、この広場は1802年までグレーヴ広場と呼ばれていました。

市庁舎の歴史は、正確には1357年までさかのぼります。14世紀、グレーヴ広場に建てられた「メゾン・オ・ピリエ(Maison aux Piliers)」、すなわち「柱の家」が、パリ市庁舎の前身です。毎朝、パリの労働者が仕事を求めて訪れる行政の建物でした。グレーヴ広場は労働者や失業者が集まる場所で、ストライキやデモが絶えなかったため、砂地を意味する「グレーヴ」は、ストライキを指す言葉にもなりました。時は流れて1533年、イタリア・ルネサンスに感銘を受けたフランソワ1世は、柱の家の跡地にルネサンス様式の行政建築を建てることを決めます。そして1628年、イタリア人建築家ドメニコ・ダ・コルトーナの手によって、現在に近い姿の市庁舎が完成しました。

現在の庁舎は、1871年のパリ・コミューンの際に焼失した建物を、同じ場所に同じ姿で再建したものです。パリ・コミューンは、無償教育、最大労働時間の制限、男女の賃金平等、女性参政権の保障など、当時としては想像しがたいほど進歩的な政策を掲げた運動で、70日間続いた人類初の共産主義政府でもありました。火災後、新庁舎の設計コンペが開かれ、さまざまな案が出されましたが、最終的に選ばれたのは、かつての姿をそのまま再現する案でした。再建には10年にわたり、毎日900人あまりの労働者と230人あまりの彫刻家が動員され、現在の姿になったのは1882年のことです。外壁を飾る数多くの彫像は、歴代のパリ市長や、パリの歴史を彩った著名人たちです。

広場にもさまざまな物語があります。グレーヴ広場はパリ最初の広場で、騒乱のたびに群衆が集まり、歴史の中でパリ市民の抵抗の拠点となってきました。フランスの有名な処刑具、ギロチンも、最初にこの広場に設置されました。フランスでは、ヴェルサイユ宮殿がルイ14世の栄光のための建築なら、パリ市庁舎は共和国の栄光のための建築だといわれます。パリ市民の暮らしと抵抗、革命の歴史が深く結びついたこの建物は、内部もヴェルサイユ宮殿に劣らず壮麗です。民衆の力が王の力より大きく偉大であることを、建築でも示したかったためだといいます。ただ、市民の権利と自由、民衆の力を象徴するにしては、役所としては装飾が過剰ではないか、という印象も受けます。

市庁舎の内部を見学するには、英語またはフランス語で行われる現地ガイドプログラムに申し込むか、文化遺産の日や展覧会など、市庁舎で開かれる催しの日程を確認する必要があります。

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写真は ウィキメディア・コモンズ より。撮影:Dietmar Rabich, Sefer azeri(CC BY-SA 4.0)。

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