パリ · 絵画
抵抗の彫刻『死者の頭』
ピカソ美術館 · パリ, フランス
1943年に完成した『死者の頭(La tête de la mort)』を一言で表すなら「抵抗」です。一見すると、青銅と銅でできた髑髏の形の彫刻にすぎませんが、そこには深い背景があります。1943年のパリは、それまでとは雰囲気がまったく違っていました。人類史上最大の人的・物的被害をもたらしたといわれる第二次世界大戦のさなかで、この作品はナチス・ドイツに対する強烈な抵抗でした。ナチスは戦時中もピカソを絶えず脅かしていましたが、その関係を知るには、まずピカソのもうひとつの代表作『ゲルニカ』を見ておく必要があります。
『ゲルニカ』は、黒、白、灰色の無彩色だけで描かれた作品です。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ女性、スペインを象徴するかのような雄牛、槍に刺されて悲鳴を上げる馬、地面に横たわる遺体。人々の表情は、どれも苦痛にもだえているようです。無彩色の色合いそのものが、希望のなさを感じさせます。この作品は実際に起きた出来事を背景にしており、「ゲルニカ」はスペインのある町の名前でもあります。
当時のスペインは、激しい内戦のさなかにありました。表向きは共和派と、独裁者と呼ばれたフランコ将軍率いるフランコ派の争いでしたが、双方とも各国の支援を受けており、その背後では大国同士の駆け引きが繰り広げられていました。ソ連は共和派を、ドイツとイタリアのムッソリーニはフランコ派を支援し、イギリスとフランスは不干渉政策をとりました。第二次世界大戦の前哨戦のような様相でした。両派が陣取り合戦のように都市を奪い合う中、市民が命を落とし、けがを負い、建物は崩れ、焼け落ち、各地が荒れ果てていきました。そんな1937年4月26日、スペイン北部の小さな町ゲルニカで事件は起きます。その日はちょうど市の立つ日で、人々が外に出ていました。午後4時ごろ、何の予告もなく数十機の爆撃機が低空で飛来し、容赦なく爆撃を始めたのです。たちまち燃え上がる町から逃げる人々を、戦闘機が追いかけて無差別に攻撃したといいます。当時のバスク政府は死者1,600人余り、負傷者約900人と発表しました(死者数は研究によって数百人とする見方もあります)。爆撃を行ったのは、フランコ派の後ろ盾だったドイツです。共和派に恐怖を与えるとともに、新たに開発した空軍の兵器の威力を試すことが目的で、ドイツの介入自体も、フランコ将軍の要請によるものでした。ゲルニカは、事実上ドイツの新兵器の実験場となったのです。
知らせを聞いたピカソは激怒しました。彼はこのとき、パリ万国博覧会のスペイン館に展示する絵をスペイン政府から依頼されていて、横776cm、縦349cmという巨大な作品をわずか1か月で仕上げ、スペイン館に飾りました。報道や口コミを通じて、スペイン内戦の深刻さと、フランコ政権とナチスによる国際的な犯罪が世界に知られることになります。『ゲルニカ』は、戦争の恐怖と、罪のない数多くの犠牲者に対するピカソの怒りを象徴する作品です。この作品はすぐにはスペインへ渡れませんでした。ピカソは、フランコの死後、スペインが民主化した暁には、この作品を祖国に返してほしいと望んでいました。その意向に沿って、作品は1981年までニューヨークにあり、その後スペインに戻りました。
この作品には、こんな逸話が伝わっています。第二次世界大戦中、パリを無血占領したナチス政権の大使格だったというゲシュタポの将校が、たびたびピカソのアトリエを訪れました。ピカソを逮捕することはできないまま、『ゲルニカ』のように人々の心を揺さぶる絵をまた描かないか、見張っていたのです。この将校が『ゲルニカ』の写真の前で「これを描いたのはあなたですか」と尋ねると、ピカソは「いいえ、あなた方が描いたのですよ」と答えたといいます。ドイツが描いたという意味です。1940年代には、ドイツ人の訪問客に、『ゲルニカ』を複製した絵はがきを、からかうような表情で「記念にどうぞ」と配ったともいわれます。ナチスはピカソを何度も脅し、公の場では堕落した芸術家と非難することもありましたが、彼の圧倒的な名声ゆえに、簡単には逮捕できませんでした。逮捕すれば、かえって反発が大きくなりかねなかったからです。
話を『死者の頭』に戻しましょう。スペイン内戦は結局フランコ派の勝利に終わり、『ゲルニカ』を描いてからおよそ2年後、第二次世界大戦が勃発します。ドイツ軍がパリに無血入城すると、都市全体が抑圧され始め、街は恐怖に包まれました。ピカソとドラ・マールのもとには、レジスタンスに加わったとして強制収容所に送られた友人や、拷問を受けたユダヤ人の友人たちの知らせが、絶えず届いていました。『ゲルニカ』以降、ピカソはナチス政権から激しく非難され、彼自身が反抗の象徴となっていたのです。「第二の『ゲルニカ』」が生まれかねないという理由で、現代美術家たちは展示も出版も禁じられました。とりわけ、青銅による鋳造は全面的に禁止されていました。青銅は弾薬などの武器づくりに使えるため、ドイツ軍が戦時中の金属不足を補おうと、街角の彫刻から青銅を集めて溶かし、武器に作り替えていた時期だったのです。そんな殺伐とした空気の中でも、ピカソは自分の彫刻を青銅で鋳造しようと考えました。ひそかに鋳造する機会をうかがい、ついに完成させたのが『死者の頭』です。そのような時代にこの作品を完成させたこと自体が、きわめて反骨的で勇敢な行為だったと評価できるでしょう。
