モネのジヴェルニー · 3/28

パリ · 絵画

列車が開いた、印象派への道

ジヴェルニー · パリ, フランス

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作品の中の列車と違って、蒸気を吐くわけでも黒い車体でもありませんが、いま列車の中で感じている胸の高鳴りは、モネがジヴェルニーへ向かったときの高揚感とどこか似ているかもしれません。サン・ラザール駅の絵が描かれたのは1877年、モネがジヴェルニーに居を構えたのはその6年後の1883年です。つまり、モネがジヴェルニーへ行くためにサン・ラザール駅を訪れて、その姿を描いたわけではありません。モネはそれ以前から、列車であちこちを巡りながら絵を描いていました。故郷のル・アーヴル、大聖堂の連作を描いたルーアン、港町のオンフルール、田舎町のアルジャントゥイユ。いずれもフランスの北西部にあり、そこへ行くにはサン・ラザール駅を通らなければなりませんでした。

鉄道は、とりわけ印象派の画家たちにとって大きな意味を持っていました。印象派の特徴は、アトリエで想像して描くのではなく、外に出て目の前のものを直接見て描くことだからです。屋外で絵を描くことのどこがそんなにすごいの、と思うかもしれません。しかし印象派以前には、そのような絵が描かれなかったばかりか、想像すらしにくいことでした。

印象派が登場する以前は、アカデミズムが主流でした。アカデミーとは学問や芸術の研究と発展をめざす機関のことですが、時代が下るにつれ、その時々の支配者を称えることが役割になっていきます。社会批判はせず、多様性も認めません。人々の考えが多様になれば、それだけ時代への批判も出やすくなるため、画一的な美の基準が作られたというのです。画家たちは目上の人に気に入られるための絵を描くようになり、その典型がアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』です。オルセー美術館の1階で観られるこの作品には、美しいヴィーナスと天使が描かれています。神話、天使、栄光、歴史といった政治色のある題材を、完璧な遠近感と構図で描くことが「上手な絵」とされた時代でした。皇帝ナポレオン3世はこの作品を気に入り、自ら購入したといいます。

当時の画家は、お金を稼ぎ、後援を受けなければ絵を描き続けられませんでした。そのためにはサロンに作品を出品する必要がありましたが、サロンが求めていたのは、フランス帝国を盤石にするアカデミズムの芸術でした。『ヴィーナスの誕生』が絶賛されていたころ、サロンで厳しい批判を浴びた作品があります。「印象派の父」と呼ばれるエドゥアール・マネの『草上の昼食』です。この作品もオルセー美術館で観ることができます。審査員たちは「醜悪だ」「筆でこすったようだ」「解剖学的な構図が合っていない」「堕落した画家だ」と評し、作品はもちろん落選しました。その年は落選した画家があまりに多く、抗議の声が相次ぎます。そこで、落選作を展示して改めて評価する「落選展」が開かれました。裸の若い女性が若い男性たちと森に座っている絵が展示されている、という噂は、たちまちパリの若者たちの間に広がりました。

その噂を聞きつけて、モネと仲間たちも絵を見に行きました。彼らは審査員とは正反対の感想を口にしたと伝えられています。白い肌、仕上げのない簡潔な画面、筆の跡がそのまま残る描き方、広がる自然の光、そしてこちらを見つめる女性。古代ローマやギリシャ、オリンポスの神殿ではなく、パリそのもの、つまり自分たちの世界を描いた作品だ、というのです。このときから、モネと友人のルノワール、バジールは、神話の登場人物や誰もが同じように描く対象ではなく、本物の自然、本物の世界を描くためにアトリエの外へ出ていきました。

絵の題材を探してあちこち出かけるには、移動手段が必要です。当時の印象派の画家たちは絵が売れず、馬車に乗る余裕もなかったでしょう。歩いて描く場所を探すのも簡単ではありません。もし列車がなかったら、多くの傑作が生まれなかったかもしれません。印象派がこの時代に花開いたのは、列車があったからではないか、とも思えてきます。

窓の外では、景色が次々と流れていきます。窓を額縁に見立てれば、風景は生きて動く絵のようです。列車に乗って光を追い、絵の題材を求めて旅するように描き続けたモネは、窓の外を眺めながら、何を思っていたのでしょうか。

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写真は ウィキメディア・コモンズ より。撮影:TouN(CC BY-SA 3.0)。

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