ヴィーナスの誕生
ポンペイ遺跡の発掘をきっかけに、古代の暮らしへの想像力が大きく広がっていた時代でした。そしてシャセリオーは、その想像の世界を最も優雅なかたちで表現したのです。
絵をご覧ください。美しい女性が裸で海の上に横たわり、その上には小さな天使たちが舞っています。
この作品の題材は、ギリシャ神話です。
クロノスが父ウラノスの性器を切り落として海へ投げ捨てると、そこから突然泡が湧き上がり、その泡の中から美の女神ヴィーナスが誕生した――そんなギリシャ神話の場面を描いた作品です。
この《ヴィーナスの誕生》は、アカデミスムを代表する作品の一つといえるでしょう。
アカデミスムとは、絵を描く際に正確な人体の比率や遠近法といった技法を忠実に用い、歴史や神話、あるいは宗教を題材に描く芸術様式のことです。
一言でいえば、美術学校で習ったとおりに描く、いわばお手本のような絵です。
ご覧いただくと、構図がとても安定していて、人体の比率も正確に描かれているのがお分かりいただけると思います。
カバネルはこの作品を、1863年に開かれたサロンに出品しました。
サロンは、当時の画家たちにとって登竜門ともいえる、とても重要な展覧会でした。
当時はどれほど人気だったかというと、年間およそ百万人が訪れるほどの大人気だったと言われています。
この数字は、当時のパリの人口に匹敵するほどの人数だったのです。
それほど当時のパリは文化の中心地であり、人々がいかに芸術に高い関心を寄せていたかがよく分かります。
ですから、当時の画家たちにとってサロンで認められることは、画家としての成功が約束されるようなものだったのです。
だからこそ、カバネルもこの作品をサロンに出品したのです。
それでは、もう一度この作品をご覧ください。
この作品の主人公であるヴィーナスをご覧ください。
とても官能的に描かれています。
当時のフランスの人々が理想とした女性の体つきで描かれています。
少し分かりにくいかもしれませんが、ヴィーナスの目をご覧ください。目を閉じているのではなく、薄く目を開けています。
こうした表現の一つひとつが、当時この作品を鑑賞した多くの男性たちの心を強く惹きつけたと言われています。
現代の私たちから見ると、「これのどこがそんなに刺激的だったのだろう」と思うかもしれません。しかし、1863年当時は、インターネットやテレビのような映像メディアはありませんでした。そのため、人々が視覚的な刺激を得られる機会は、このような絵画くらいしかなかったのです。
しかし、あまりにも露骨な表現になると、人々から強い批判を受けました。
その代表例が、マネの《オランピア》です。
実はマネも、1863年にカバネルと同じく、サロンへヌード作品を出品しました。しかし、その評価はまったく正反対のものだったのです。
そのお話は、《オランピア》の前で詳しくご紹介します。
同じヌード作品でも、どのように表現するかによって評価は大きく分かれました。当時、「ヴィーナスの誕生」という題材は、古典的な神話を描くという名目があったため、公序良俗を損なうことなく、エロティシズムを表現できる絶好のテーマだったのです。
カバネルはその点を非常に巧みに利用したのです。
そのため、多くの人々の目を楽しませたこの作品は、当時ほとんどの美術評論家から絶賛されました。
そして、サロンでは見事に最高の評価を獲得しました。
さらに、当時の皇帝ナポレオン三世もサロンでこの作品をご覧になり、大変気に入ったため、その場で購入したと言われています。
皇帝がこの作品を購入したという話が広まると、カバネルの人気は一気に高まりました。
その後、カバネルには肖像画や作品制作の依頼が次々と舞い込み、彼は《ヴィーナスの誕生》を題材にした作品をさらに二点描いています。
そのため、《ヴィーナスの誕生》は全部で三点描かれました。一点はここオルセー美術館に、もう一点はニューヨークのダヘシュ美術館、そして最後の一点はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されています。
カバネルはナポレオン三世の寵愛を受けながら、肖像画家としても活躍しました。
カバネルがどれほど人気だったかというと、彼に肖像画を描いてもらうために、アメリカからも裕福な人々が大金を持ってわざわざパリまでやって来たと言われています。
カバネルは、人々が何を好むのかを正確に理解していた画家でした。
そのため、彼は莫大な富を築いただけでなく、フランスを代表する美術学校であるエコール・デ・ボザールの教授、さらには学長にまで就任し、名声と富の両方を手にした画家となりました。
ここまで、カバネルの《ヴィーナスの誕生》を一緒に鑑賞してきました。
それでは、次の作品へ移りましょう。
ここまでオルセー美術館でご覧いただいた新古典主義やロマン主義の作品を描いた画家たちは、当時はいずれも第一線で活躍していた人気画家ばかりでした。
しかし、これからご覧いただく作品は、今では世界中で高く評価されていますが、当時は「こんなものも絵なのか」と厳しく批判されていた画家たちの作品なのです。
このように、絵画の評価というものは、時代によって大きく変わることがあるのです。
どのような作品なのか、気になりますよね。
それでは、私と一緒に次の作品へ向かいましょう。